宮代康丈(慶應義塾大学)、中村隆之(大東文化大学)、馬場智一(長野県短期大学)、司会 伊達聖伸(上智大学)

会場

501会議室

宮代康丈(慶應義塾大学)「トクヴィルにおけるリベラリズムと共和主義」

中村隆之(大東文化大学)「クレオール再論」

馬場智一(長野県短期大学)「ヤコブ・ゴルディーンと「ユダヤ哲学」」

司会 伊達聖伸(上智大学)

 

 

 今回の若手研究者セミナーは、宮代康丈、中村隆之、馬場智一の各氏をお招きし、それぞれの専門性を踏まえた研究成果や現在の関心のありかを、専門外の聴衆にもよくわかる語り口で話していただきます。

宮代氏は、トクヴィルをはじめとするフランス政治哲学を中心にパリで長いあいだ研鑽を積まれ、ソルボンヌの哲学科で講師を務めた経歴の持ち主です。訳書に、ジャック・ブーヴレス『アナロジーの罠―フランス現代思想批判』(新書館、2003年)、アントワーヌ・コンパニョン『アンチモダン――反近代の精神史』(名古屋大学出版会、2012年、共訳)があります。

中村氏は、フランス語圏文学、カリブ・アフリカ地域研究が専門で、『カリブ―世界論』(人文書院、2013年)、『フランス語圏カリブ海文学小史』(風響社、2011年)を刊行しています。エドゥアール・グリッサンやエメ・セゼールについての翻訳があり、今回は〈クレオール〉の今日的可能性について論じていただきます。

馬場氏は、哲学・倫理学・思想史とりわけレヴィナスとユダヤ思想を専門とし、層の厚い日本のレヴィナス研究のなかで若手を代表する一人です。著書に『倫理の他者 レヴィナスにおける異教概念』(勁草書房、2012年)、訳書にアラン・バディウ『世紀』(藤原書店、2008年、共訳)などがあります。

哲学・思想・歴史を横断しながら自由に討議する開かれた相互啓発の会にしたいと思います。ふるってご参加ください。それぞれの論者は発表が45分、討論15分を予定しています。

 

プログラム

14h00  開会 三浦信孝・廣田功


14h10 宮代康丈(慶應義塾大学准教授)

二つのデモクラシー?トクヴィルにおけるリベラリズムと共和主義の問題

15h10 休憩


15h20 中村隆之(大東文化大学専任講師)

クレオール再論

 

16h20 休憩

 

16h30馬場智一(長野県短期大学助教)

ヤコブ・ゴルディーンと「ユダヤ哲学」

 

17h30 閉会

 

 

宮代康丈 (みやしろ やすたけ) : 慶應義塾大学総合政策学部准教授。パリ第四大学博士(哲学)。最近の論文に、    « L’humanisme est une éthique. Penser la critique lévinassienne de l’antihumanisme » (Keio SFC Academic Society, 2014),  « Égalité ou excellence ? L’Université face à la démocratie » (in Alain RENAUT, Politiques universitaires et politiques de développement, PUPS, 2013), « Une fondation réflexive du solidarisme. Étude philosophique sur la pensée de Léon Bourgeois » (Keio SFC Academic Society, 2012).

二つのデモクラシー?トクヴィルにおけるリベラリズムと共和主義の問題:最良のデモクラシー体制は何か?この問いをめぐって、政治哲学では数十年来、リベラリズムと共和主義が対立している。この対立はひどく錯綜している。フランスでも英米でも、共和主義はリベラリズムの批判というかたちで再評価されている。ところが、フランスにおいて共和主義は共同体主義への対抗軸として示されることが多い一方で、英米の現代共和主義者のなかには、フランス流の共和主義を共同体主義の一変種と捉える論者もいる。リベラリズムと共和主義の対立に加えて、共和主義内部の相違も含む複雑な争点を解き明かすために、政治哲学においてリベラルとも共和主義者ともみなされるアレクシ・ド・トクヴィル(1805-1859)の思想を取り上げて分析し、リベラリズムと共和主義という二つのデモクラシー哲学にそれぞれいかなる論点と展望があるのかを明らかにしたい。

 

中村隆之(なかむら・たかゆき):東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了。博士(学術)。現在、大東文化大学外国語学部専任講師。著作に『カリブ-世界論』(人文書院、2013年)、訳書にエドゥアール・グリッサン『フォークナー、ミシシッピ』(インスクリプト、2012年)ほか。

クレオール再論:〈クレオール〉という言葉を聞く機会が少なくなった。マルティニックの作家たちによる〈クレオール〉の文学宣言からすでに四半世紀が経ち、この語と共に(再)注目されたカリブ海作家もいまやフランス語文学の代表格(グリッサン、シャモワゾー、コンデ等々)と認識されているのだから、当然といえば当然である。しかし〈クレオール〉が、いわゆるクレオール作家の代名詞を越えて、20世紀から21世紀にかけての転換期に(とりわけ日本語圏で)さまざまに論じられてきたことは、この語が単に輸入思想の新奇な目印ではなく、来るべき世界を展望するための有効な視座を印していたと予感されていたからではなかったか。世界状況と社会環境が1990年代よりも深刻に悪化し、進歩的・成長的展望がもはや無効な今日の閉塞した状況において〈クレオール〉は改めて論じられるに値する。この語がどのような背景で生まれ、カリブ海フランス海外県の作家たちによってなぜ提唱されたのか。カリブ海はどのような歴史をたどってきた地域なのか。カリブ海の民が経験した「近代」への省察から生まれた〈クレオール〉思想の豊かさを提示したい。

 

馬場智一(ばば・ともかず):パリ-ソルボンヌ大学大学院第五研究科博士課程修了、博士(哲学)。博士(学術・一橋大学)。現在、長野県短期大学助教。単著に『倫理の他者 レヴィナスにおける異教概念』(勁草書房、2012年)。共著にFigures du dehors — Autour de Jean-Luc Nancy (Danielle Cohen-Levinas, Gisèle Berkman (eds.), Éditions Nouvelles Cécile Defaut, 2012)ほか。翻訳に『ソドム 法哲学への銘』(共訳、月曜社、2010年)ほか。専門は哲学、倫理学、思想史。

ヤコブ・ゴルディーンと「ユダヤ哲学」:哲学上の論争は、哲学史の解釈を巡る論争でもある。西洋哲学を存在の忘却の歴史とみなしたハイデガーに対し、レヴィナスが存在論的な暴力による不正の歴史を同じ西洋哲学に認めた。レヴィナスの年上の友人だったゴルディーン(Jakob [Jacob] Gordin 1896-1947)は、「キリスト教的方向性」と「ユダヤ教的方向性」を二つの軸とする独自の西洋哲学史をレヴィナスに先立ち構想していた。マイモニデスとコーヘンが代表する「ユダヤ哲学」は、無限判断をその核心の論理とする。ゴルディーンはベルリンのユダヤ教学研究所在籍時に著した博士論文でこの論理の歴史とその詳細を検討している。本発表ではこの博士論文に基づいて無限判断が一体どのようなものなのかを紹介したのち、「ユダヤ哲学」という構想がもつ哲学(史)的な意義について、同時代の哲学者らとの比較対照を通じ少し踏み込んで考えてみたい。