稀代の科学者であるルイ・パスツールは、科学に対し独立性と大胆さとを持って、作業仮説を組み立てた実験をすることで、科学の進歩に捧げた。
彼の科学者としてのスタートは、化学者としてであり、酒石酸とブドウ酸(酒石酸のラセミ体)の旋光性の違いと、それによる光学異性体の発見である。生物学や発酵に関しては素人だった彼は、アルコール製造過程における酸敗の究明にあたり、発酵研究で酵母菌・乳酸菌等を発見した。また、彼は生物の自然発生説の否定実験で用いたれた“白鳥のクビ型フラスコ”は万人が知れる所であり、生物は“生命は生命から”を証明し、自然発生論争に終止符を打った。
彼の尽きない研究への情熱は、近代微生物学をコッホ等とともに黎明期を築き感染症と病原菌を突き止め数々のワクチン開発をし、狂犬病ワクチンは人類に多大な貢献をしている。彼の業績は正にフランス科学の栄光として神話的なものとも言える。
2015 年は彼の没後120年、狂犬病ワクチン療法130年に当たり、彼の業績を知るとともに科学に対するあり方について考察したい。
プログラム
生命科学の祖、パスツールの原点:酒石酸塩の結晶化学
−僥倖は良き準備をした人にのみ与えられる−
北原 武(農学博士、東京大学名誉教授・北里大学客員教授)
1943年長野県生まれ。東大院農・農芸化学博士修了、農学博士。理研・研究員、米ピッツバーク大化学・博士研究員、東大院農助教授、教授歴任。その間1991年仏ルイ・パスツール大招聘教授。退官後帝京平成大薬教授を経て、現在東大名誉教授・北里大客員教授。専攻:有機合成化学・天然物化学。新しい生物機能性分子の創製と応用を目指す“ものつくり”を追究してきた。2003年日本農学賞・読売農学賞。2010年日本学士院賞。
ルイ・パスツールは、フランスが生んだ最大の科学者の1人であり、業績は化学・微生物学・医学に及ぶ。彼の生命科学分野における膨大な業績の出発点には立体化学に関わる発見があった。
1847年エコール・ノルマルを卒業、当時全く理解不能であった酒石酸塩類の結晶形と旋光性に関する研究に着手した。水晶結晶の半面像に由来して発見された旋光性に関し、葡萄酒の醗酵で生じた同じ分子式を有する酒石酸(右旋性)とブドウ酸(光学不活性)が異なる性質を示したのである。緻密な発想と実験および僥倖に恵まれて,パスツールは結晶化学の分野における30年来の大問題を解明した。さらに、ブドウ酸を酒石酸に変換しようと微生物変換を用いたことから、研究は醗酵学、微生物学へと展開され、後年の偉大な業績へと結びついたのである。演者は、その原点である結晶化学分野の成果について解説する。
ワイン醸造学の基礎とワイン醸造技術の革新
戸塚 昭(農学博士、ワイン醸造技術管理士、(一社)葡萄酒技術研究会代表理事)
1937年生。農学博士・技術士(農学部門・農芸化学)ワイン醸造技術管理士(一般社団法人葡萄酒技術研究会認定・国際エノログ連盟会員)、有限会社 テクノカルチャー (酒類醸造コンサルティング業) 代表取締役、東京バイオテクノロジー専門学校 講師(醸造学) 兼 同校教育課程編成委員、東京農業大学 (元) 客員教授(醸造学)、一般社団法人 葡萄酒技術研究会 代表理事・会長。平成 4年 4月:「ワイン醸造における酸化防止と品質改良に関する研究」により「科学技術庁長官賞 研究功績者表彰」受賞。平成15年 4月:「ワイン醸造における酸化防止とそれによる高品質化技術の開発」により「紫綬褒章(科学技術に関する研究、開発部門)」受章。平成18年 4月:「税務行政事務功労」により「瑞寶小綬章」受章。平成27年10月:「日本のワインの高品質化に関する広範な研究、並びにワイン醸造技術者の育成と啓蒙活動、教育活動への貢献」により、「日本醸造学会功績賞」受賞。
ワインを貯蔵する際に生成する結晶(酒石)が光学異性体であることを発見したパストゥール博士は、その後、腐敗と発酵がいずれも微生物に起因する現象であることを証明するとともに、発酵における自然発生説を否定し、ワイン、ワインヴィネガー、ビールの醸造産業の発展に寄与した。特に低温殺菌法はパストゥリゼーションと名付けられ、現在でも食品産業において広く採用されている。
ワインの世界では永年にわたり「畑の酵母によるワイン醸造」が主流であったが、1930年代になって世界各国の大学、研究機関により優良ワイン酵母の収集と保存が行われるようになり、1970年代に入ると顆粒状酵母によるワインの醸造が始まり、1990年代後半には顆粒状乳酸菌によるマロラクティック発酵も実用化された。パストゥール博士によるワイン醸造学の基礎の確立と現在に到るワイン醸造技術の革新について述べる。
生命の起原の研究とパスツール
大島 泰郎(理学博士、共和化工(株)環境微生物学研究所長、東京工業大学・東京薬科大学名誉教授)
1935年東京生。現在は共和化工(株)環境微生物学研究所長、東京工業大学・東京薬科大学名誉教授。1958年東京大学理学部化学科、1963年同大学院生物化学専攻博士課程終了。理学博士。東京大学助手、NASA博士研究員、三菱化成生命科学研究所を経て、1983年東京工業大学教授、1995年東京薬科大学教授、2005年より現職。好熱菌、好熱古細菌を利用したタンパク質工学、進化生化学の研究を行っている。
有名なパスツールの「白鳥の首のフラスコ」の実験研究は、生命の起原の研究における記念碑的な研究であることはいうまでもない。彼の実験研究は、生命の起原研究にとどまらずその後の生命科学の基礎研究の発展に大きな影響を及ぼしたが、さらに滅菌法、消毒法の確立など医療や発酵産業を発展させる上でも大きく貢献した。パスツールの輝かしい業績のなかから、生命科学の研究における「仮説検証型」の実験手法など、二、三の話題を取り上げて、話題提供としたい。
近代ワクチンの創始者
池田忠生(医学博士、日仏会館学術委員、元日本パスツール協会副会長)
1943年東京生まれ、日大獣医卒、日大大院獣医学修士終了、医学博士、パスツール研究所、仏農務省中央獣医学研究所(Maison-alfort)、日大奉職(農獣医学部、医学部)、その間アルフォール国立獣医大学、Aaint-Antoire病院感染症科、Henri-Mondor病院微生物検査科、AFSSA狂犬病・野生動物疾病研究所(Malzeville-Nancy)など。元パスツール協会副会長、(公社)東京都獣医師会監事、狂犬病臨床研究会監事、(公社)東京都医師会感染症予防検討委員会委員など。専攻:人獣共通感染症、実験動物科学。
パスツールと言えば狂犬病ワクチンの発見が有名なことは衆人の知るところですが、伝染症の原因と予防に関する研究は1877年の炭疽に関する最初の実験から10年も経ない期間で、この夢想的な考えを、鶏コレラ、炭疽、豚丹毒、そして狂犬病のワクチンに成功した。免疫学の歴史の中で彼が果たした役割は、伝染病の「微生物説」の確立であり、ジェンナーの考えを発展させ、予防接種の概念を体系化した事である。
バカンスでたまたま長期培養されたニワトリコレラ菌が弱毒化され、免疫効果を有する事を理解し、1880年に発表した論文「伝染病、特に鶏ニワトリコレラについて」は、近代ワクチンのはじまりを告げるとこになる。
演者はパスツールがいかにして各種ワクチンを作製したかを2、3のエピソードをまじえて概説する。