第40回渋沢・クローデル賞奨励賞を賜り、大変光栄に存じます。ご選考くださった先生方ならびに関係者の皆様、これまで様々なかたちで導いてくださった先生方、本書に関わってくださったすべての方々に、心より感謝申し上げます。
思い返せば本書は、学部生時代に生じた「宗教によって人間は不幸になることがあるのに、なぜ宗教は存在し続けるのか?」という素朴な問いから出発したように思います。1年生の時に読んだ遠藤周作の『沈黙』は、私にこのような疑問を抱かせました。キリシタン禁制の時代、「転ぶ」ことを拒否したキリシタンたちは、拷問にかけられ殉教していきます。にもかかわらず、神は沈黙し続けるのです。また、これら「強き人」ではなく、拷問や死を恐れて神を裏切る「弱き人」に焦点が当たっている点も印象に残りました。当時の私には、クリスチャンの作家でも護教論を書くわけではないということが、とても意外でした。
その後、学部での交換留学中にジッドの『狭き門』の原書を読んだ際、遠藤の作品に通じるようなキリスト教への問題意識を感じました。信仰によってもたらされる悲劇という点が重なるように思われたのです。
また、やがて芽生えたもう一つの関心に、芸術と医学、芸術家と病の関係がありました。大学院生時代に留学先のパリでノルダウの『退廃論』の存在を知り、医学者が当時の芸術家たちを病的とみなし、彼らの作品を論拠に論証しようとしたことの面白さに惹かれました。私にとってのこれら二つの関心の接合を試みたものが、本書ということになります。
執筆に際しては、19世紀や20世紀の文学が現代とどのようなつながりを持ちうるかという点を意識してきたつもりです。図らずもこの数年、新たな感染症の流行で、世界中の人々の日常が「病」と隣り合わせのものとなりました。また昨年は、新興宗教に起因する事件により、日本社会の宗教問題が顕在化しました。本書で論じた内容から推測するに、もしジッドが今生きているとすれば、実生活ではコロナに怯えつつも、この病に振り回される人間こそを「病的」な存在として描いたように思われますし、信者に金銭を要求し、周囲の人々をも不幸にする宗教団体に対しては、厳しい非難を向けるでしょう。一人の作家の思索を追った本書が、特定の時代・地域・宗教についての関心を超え、現代社会を見つめ直すわずかな契機になりうるとすれば嬉しく思います。
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