第36回 渋沢・クローデル賞 奨励賞
奨励賞
石川 学 氏
『ジョルジュ・バタイユ 行動の論理と文学』
東京大学出版会、2018 年
受賞者の言葉 |
第36回渋沢・クローデル賞奨励賞を賜るにあたり、非常な名誉への感激もさることながら、今後研究者として担うべき責任を痛感いたしております。ご選考くださいました先生方、関係者の皆様に衷心より御礼申し上げます。 二度の世界大戦を経たバタイユの思索の歩みは、行動を通じた実存変革と世界変革の希求にはじまり、ついには行動の積極的な回避へと、文学への最後の希望の投影へと行き着いた、というのが拙著の観点です。目的の正当性の如何を問わず、結局は自ら「力」たることを欲する行動の暴力性に直面して、バタイユは、敢えて「無力」なる文学に没入する姿勢を唯一可能な「反抗」のあり方として提起したように思われます。 反抗の不在とも見紛うようなこの「反抗」を、私は個人の価値判断において、肯定的な可能性だと捉えてきました。おのれの原稿の焼却を厳命して死んだカフカから結論される、その残存がもっぱら焼却の定めの延期であるような文学の居場所のなさを、現実において支配的な行動の原理――それは有用性の原理であり、しばしば正義であり、同時に戦争を不可避の帰結とします――に空隙を穿つものだと見なす立場に、内奥の連帯感を抱いてきました。 無力な文学という論点を重視するこうしたバタイユ解釈には異なるご意見をいただくこともあり、その都度、貴重な省察の機会を与えられています。無論、テクストの解釈に内奥の連帯感を先行させるのは厳に慎むべきであり、今後、いっそうの検討を重ねるべき主題だと理解しています。 一方で、おそらくはバタイユ解釈の問題とまた別のところで、文学の「反抗」が今なお希望に値する行いであり得ているか、と省みないわけにはいかない時勢の推移があります。有用性の原理の一元支配に対する暗黙の抵抗が、焼却の執行猶予のなかで可能であるとしても、来たるべき執行の取り返しがつかないことは明らかです。私は、文学研究者として、人間の人間性を問う人文学の責務を曲がりなりにも身に受ける者として、不安を抱かずにはいられません。 今回、受賞の報をいただいたのは、まさにこうした不安にことさら思いをいたしていたときでした。駆け出し者の文学研究に光を当てていただいたことへの万謝を身に刻み、以後の仕事に必ず努めてまいる所存です。あらためまして、ご関係の皆様、そして、ご指導をくださっている皆様に御礼申し上げます。 |
選評 |
評者 中地 義和(東京大学名誉教授) 本書は、しばしば盲目的情動を尊ぶ反理性の思想家とみなされるジョルジュ・バタイユについて、彼の思想形成がじつは多様な学問的探求と不可分であり、かつその探求が、ファシズムの台頭や東西冷戦といった時代の危機に対処する行動への配慮に直結していたという発想のもと、バタイユの軌跡をほぼ全生涯にわたって精緻に跡づけた労作である。 『ドキュマン』、『社会批評』、『アセファル』等の雑誌に発表された論考を、ヘーゲル哲学、ニーチェ思想、聖性をめぐる社会学との関わりにおいて丹念に分析しながら、全体主義に抵抗しうる祝祭的共同体をいかに創出するかに心を砕いた戦前のバタイユの思想形成をたどる第一章、および、精神分析学、社会学、実存主義哲学に限界を見てとった戦後のバタイユが、主にニーチェに拠りながら「無神学」や「共同体を持たない者たちの共同体」のヴィジョンを練り上げていくプロセスの検証と併行して、過剰な富の蓄積と米ソの核開発競争による新たな世界戦争への突入の危険を回避すべく「消費の観念」や「全般経済学」の観念を打ち出した『呪われた部分』を論じる第二章は、ともに濃密で整合性の高い議論を展開し、説得的である。他方、『内的体験』と『文学と悪』に基づく文学論である第三章は、「供犠としての文学」の観念に収斂させる意図が勝ちすぎたか、いくぶん限定的な分析にとどまった点が惜しまれる。『文学と悪』を論じながらボードレール論、ジュネ論に触れないのは、サルトルとバタイユを対置させる文脈であるだけに焦点がずれ、バタイユ自身の小説作品への言及が皆無であるのも一つの欠落と言わねばならない。 本書はバタイユ研究としては、きわめて高い学術的成果を達成している。「学知と行動」の結びつきを軸に据えた構想の独創性、推論の明快さ、文献渉猟の豊富さと処理の精度、本文の主旨を際立たせるべく付随的情報をすべて巻末註にまとめた決断、図版を一切挟まず文章記述のみで論じ切った潔さなど、いずれも特筆すべき美点で、その結果として、多面的なバタイユ思想の変化の相と不変の基底部を同時に炙り出すことに成功している。より大局的な展望のもと、一個のモノグラフィーの枠を突き破る野心とダイナミズムがこれに加わっていたならば、さらに見事なできばえの作品となったことだろう。 |